あるある
【画像】ナイーブ民「うわ覚えられた…もう二度とこの店来ねえわ」←この心理www
「あ…!この漫画描いてる作者、多分女やろなぁ…」←思い当たる現象www

なんなん?
【漫画アニメ】強キャラに「大佐」の役職多いけどなんでだよwww
【悲報】アニメのOPで終盤に登場するキャラが出てくる演出あるけどさ…

あれやめろ
【あるある】漫画やアニメでは見かけるけど、リアルでは使われない言葉wwwwwwwwwwwwwww
片腹痛い
【漫画】設定で「頭脳戦がある、味方に最強キャラ、日常系、天才キャラがいる」に対してアレルギーの知人がいるんだが…
こんな奴他にいる?正直頭おかしいと思ってる
【漫画像】選挙における国民の心理を描いた漫画、あるあるだと話題にwwwwww
“投票したい”候補者はいないけれど、それでも選挙権は放棄しない――候補者選びの葛藤を描いた漫画に反響が集まっています。作者は漫画家のシギサワカヤ(@ktos_tw)さん。
3人の候補者の中から投票先を決めようと調べるシギサワさん。しかし1人目は「ダメ」、次の人も「さすがにダメ」、もう1人は「すごくダメ」。結局「みんな違ってすごくダメ」でしたが、せめて最初のダメを選ぶか、と悩むのでした。
今度は「それだけはやめてほしい」と思う人から除外していこうと政策比較表を確認するのですが、「それだけはやめてほしい」「それもやめてほしい」「更なる『やめて』」とやめてほしいことが続々。やめてほしいことがなるべく少ない人を選ぶしかないという結論に至るのでした。
全ての政策が希望に合致する候補者・政党はめったになく、投票先を選ぶのは難しいと思う人は多いでしょう。「消去法で行こうと思ったら何も残らなかった」なんてことも……。漫画には「ほんとこれ」「消去法になってしまう」と選択の難しさに共感する声や、「放棄してたまるか投票権」というシギサワさんの言葉に賛同するコメントなどが寄せられています。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2110/29/news166.html
(出典 image.itmedia.co.jp)
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【漫画あるある】昔は定番だった作中に作者が出てくる展開がいつの間にか消えてる理由www
あるあるネタとは、日常生活などで多くの人が経験しているような身の回りの些細なことを挙げたり、観客の共感を得ることで笑いを誘う演芸などの手法のひとつである。 中山涙はあるあるネタの起源について、1980年代初頭にビートたけしが「学校に一人はいるこういうやつ」「テレビドラマにありがちなこういう場面」とい 4キロバイト (499 語) - 2022年7月2日 (土) 23:15 |
マグミクス 2.26
https://magmix.jp/post/79959
マンガで作者がキャラクターとして登場する場面が時折見受けられます。昭和時代の作品が多いようですが、果たして時代による変化はあるのでしょうか。
●手塚治虫と登場人物の応酬がすごい…でもその文化はだんだんと減っていく?
名作マンガにはよく「作者」が登場してきました。ギャグだけならまだしも、まあまあシリアスな場面でも、です。おそらくは日本独自の文化(ノリ)であろうこの演出は、果たして今でも残存しているのでしょうか。この記事では具体的に「作者が出てくるマンガ」の実例をあげつつ時代をくだっていきたいと思います。
●超大御所がやっているのだもの…キャラとしての作者
作者が登場するマンガにも二種類あると言って良いでしょう。ひとつは文字どおり、作中人物として作者が登場するというもの。そしてもうひとつはページに別枠を設けて、解説人物として登場するというもの。まず前者の例をみていきましょう。
『サザエさん』(1946年開始)の長谷川町子先生もたびたび、作中人物として出演していました。たいていは、メタ的な発言をしていわゆる「楽屋オチ」を迎えるというものです。
さらにマンガの神様・手塚治虫先生もまた自分の作品によく出演しています。多くはメタギャグという要素が強いのですが、なかには一概にギャグと言い切れぬ出演もあります。たとえば天才役者にして大泥棒が主人公の『七色いんこ』(1981年開始)では、自らの心身症の設定を消すよう、作者手塚治虫氏に直談判するとんでもない場面が描かれます。この時の応酬は演劇論にも通じており、作者登場回のなかでもやはり神様級の面白さを誇っています。
また『タッチ』(1981年開始)などで知られる巨匠あだち充先生もまた「急に出てくる作者」のひとりです。サンバイザーにメガネで巨大なペンを持ったおなじみのあだち先生がふらっと現れて、何か言い訳めいたことを言って去っていくのが通例です。これを含めてあだち先生の作風と言っても過言ではないでしょう。
2000年前後でもこうした作者登場の文化(ノリ)は残っています。例えば1997年に連載開始された『世紀末リーダー伝たけし!』の作者、島袋光年先生も「しまぶー」として準レギュラー出演しています。
●解説者としての作者の登場は?
以上は「作中人物としての作者登場」ですが、「解説人物としての作者」はどんな例があるでしょうか。有名作品でいえば『SLAM DUNK(スラムダンク)』(1990年)の井上雄彦先生の分身である「Dr.T」が挙げられるでしょう。作中の随所でバスケ用語やルールの解説をしてくれました。作中人物ではなく、あくまでも分身キャラが説明するところにこだわりを感じます。
少女マンガですと『ちびまる子ちゃん』(1986年)は代表例と言っていいでしょう。さくらももこ先生のちょっとしたエピソードや暮らしの知恵(のようなもの)がストーリーに応じて挿入されることは多くの方からすればおなじみ。ほかにも1999年連載開始の『GALS!』の藤井みほな先生であれば、同じページ内に欄を設けてそこで心境を吐露したり、お気に入りのグッズを紹介したり、割と自由に出演していました。
作者による解説がもっとも前景化している作品は2000年から連載開始された格闘マンガ『ホーリーランド』でしょう。ストーリーの途中で突然、森恒二先生の一人称で語られるナレーションが挿入されることで有名です。先生は姿こそ現しませんが、どの作品よりも強烈な存在感を放っていたといえるでしょう。
ここまで紹介してきた作品に通底するのはやはり、メタ的要素を許容するコメディの基盤があること。ストーリーすら茶化せる気軽さが必要でした。例えば『ONE PIECE』のなかでとつぜん尾田先生が登場してしまえば、これまで積み上げてきた世界観を壊すことになります。逆に手塚先生がストーリーマンガでさえもこの手法を用いていたことには改めて驚かされます。
そして、令和の現在において作者登場文化はどうなっているのでしょうか。例えば『鬼滅の刃』の吾峠呼世晴先生は単行本のオマケマンガで登場する程度です。『呪術廻戦』でも芥見下々先生が突然、登場して虎杖たちと話すなんて展開はありません。もしかしたら、これまで紹介してきたように作者が登場人物とからむような演出は減っているのかもしれません。なお作者が「解説」を担うマンガはまだ時折、見受けられます。
浅学の私見ながら作者登場文化は1990年代から2000年代にかけて緩やかに登場人物路線から解説者路線へと変更していった、そう解釈しても不自然ではないでしょう。果たしてこれが令和時代にどう変わっていくのか、要注目です。「作者とキャラとの距離感は明らかに時代を反映している! そこまでは分かる」この記事の筆者はそう言っています。
【あるある】漫画とかでこっちの拳銃の弾は当たるのに敵の弾は当たらない現象www
これ外人は笑うらしいね
なんで敵のだけ当たらないんだよw敵は素人なのかいwってなるらしい